青春の溺死体。

好きな人の脳内は覗きたい。ここはいずれ私の脳内になる場所。

つかむ

シングルベットで抱く夢も君も無く、ツインとダブルしか選べない本日の宿泊先ではダブルベッドを選び広々使えるぜと気丈に振る舞う。

 

現行スマホの液晶が内部から割れ申し、急遽旧来iPhoneSIMカードをぶち込む始末。片手で隅まで届くサイズは案外どころか大分わるくない使い心地だ、おお、人類が忘れていた価値よ。

 

 

 

 

 

 

2023年の12月に、恐らく6年程会っていなかった実父と連絡を取った。ライブ遠征で宿代をケチろうとした結果だ。父方の祖父母や叔母はもう10年振りとかになるだろうか。

 

 

長子の私が小学校に上がる前に離婚しちゃったけど捨てるのもねぇと、よく小学生がぶら下げているランドセル型の革小物を今更だけど……と経年劣化で茶色くなった紙の封筒に入ったお守りを貰った時の涙腺が人生史上最もピークだった。

 

 

普通の家庭だった。あったかファミリー。

そして母方の家族は普通ではなかった。10何年振りに訪れたあの片田舎で育てられていたとしたら私はきっと生まれ持ったこの才も学をも持て余していただろうから、エピソードに事欠かないおもしろ家庭で育ったことはむしろ有難いことだと思っているけれど、父方実家には確かに私が感じることの少ない温かみと呼ぶようなものがあった。それは愛と呼ばれるものなのかもしれない。窃視した母の日記にも、父方祖母から「あなたのお家には愛がないわ」みたいな旨を言われたみたいな記述があった。

あったかファミリー成分は後天的に補えるものなのだろうか。触れて、キラキラが身体の奥にそっと溜め込まれていく感覚はあるけれど、果たして本当に補充されているのか。MPのように生きる内に消費してしまったら俺たちみたいな生まれはどのように回復したら良いんだ。どうしようか、どうもできないのかな。

 

 

 

私が育った町は確かに都会と呼べて、公共交通機関で生活することが出来る。そして父の実家では車移動が基本だ。だから父は、後部座席を犬に奪われた私に失われた10年をそこはかとなくiQOSにまいて探っていく。

「まだちっちゃかった頃の(俺)が、お父さん離婚しないで〜ってギュッてして来たのを、しないよ〜って俺、抱き返せなくって、それがすげえ心残りで。覚えてる?笑」

 

その場では覚えてないことにしたけれど、言われて思い出したら、やっぱり覚えてないことにさせて欲しかった。

離婚するってことはなんとなく薄々分かっていて、自分がどのように振舞っても仕方がない決定事実なのだということは分かりながら、幼い自分が駄々をこねればなんとかなるんじゃないかと思っていた、あざといクソガキの行動なんか今更思い出しても何にもならないな。その頃から賢しい、ずる賢かったんだな俺ってば。

おぼえてませ〜ん、何事も。全部全部知らない。

 

まぁ喧嘩してたとこを見ていた訳では無いしどうせ思春期で今と同じくらい嫌いになるのだから、俺が離婚を止められていたとしても別に幸福度は今と変わらないだろう、むしろ悪化しているかもしれないし。俺は俺が好きだから、運命に抗おうとする幼き日のくるくる天パの私が健気で泣けてしまうのだ。

 

 

 

 

同じ頃の記憶だったろうか。おそらく3-4才くらいの記憶だ。生まれ持った身体の性別がなんか逆だな〜と思っていた私は、七五三で着る桃色の着物を着るのを和室の隅で泣いて嫌がっていた記憶がある。いや、逆の方が良いとまで思っていたか、それとも今の身体が嫌まで思っていたかは定かではないが、所謂違和感はあったといえるだろう。それでもまだチビガキだから男女の違いもあまりなくて、これから成長途中で分化してまた中性っぽくなるかもしれないと能天気に生きていた。思い返してみれば保育園のプールの水着のルールも不思議に思っていたような気がする。そして確か4-5才の時だったか、三輪車で同級生を追いかけていた時に天啓が訪れる。確かにあの時私の脳内には稲妻が走っていた。体力、ないし体格的にだろうか、あの子に追いつけない、自分なりに一生懸命三輪車を漕いでも届かない、あぁ、私は一生この肉体と共に生きていかねばならぬのだ、一生、このまま私は、変わることなく。分け隔てられたものは交わることなく、分かたれたまま生きるしかないのだ。

決してこのように繊細な語りではないだろうが、そうだな確かに人生だ初めて絶望した日と呼べるかもしれない。

 

 

二次性徴の時は自分で自分の性癖をねじ曲げることで自らを承認していた、ような気がする。脱衣場はその受け入れるしかない現実と向き合う場所だった、悲しい思い出もそうないけれど。出っ張った骨がかろうじて僕をナルキッソスにさせていた、させることができていた。

 

 

 

両親の離婚も肉体も、抗ってどうにかなるものではなかった。離婚に関しては、離婚しないで〜と嘆くことは反射のようなものでそこに感情は無かったけれど。そして肉体も、いつからか俺のものではなくなった。現実はどうしようもなく襲う。天災も人災も。

 

 

 

きっと母は実家を出ることで人生をこの手に掴み取ったのではないかと邪推する。生の実感を得たのだと思う。俺は進路を選ぶ時そのように思っていた。他人に応援される道に行って皆を喜ばせたいと奮闘するばかりで、自分のやりたいことが無いと気付いてしまった時には大層唖然としたものだった。人生を自分のモノにする。美しいものを美しいと言う。それはきっと洗礼のようなものだ、わたくしの新しい誕生日は2024年の2月19日。ああ奇しくも私の耳に墓場がある2人の誕生日に近い。愛しい疎遠の貴女方よ、知らぬ間に生まれ落ちたこの生のさなかでどうか幸いの内にありますように。

 

 

 

肉体から意思が解き放たれていく

浮遊した人生をやりたいがためのエゴ

エゴで自分の人生を動かしていくことを選ぶよ、選べなかったファミリーネームで 選べなかった俺のこの肉体・才能で。

僕は精神が本体、そう信じ続けることが出来ますように。

 

 

 

 

 

あっ、死なないけどね

生きる理由になる君がまだ居るんだ。生きていよう、死ぬまでは。

「最近考えたこと」

 

 

母校は中3と高2の時に生徒全員に書かせる作文コンクール的なやつがあり、高2の時に書いたやつが発掘されたので文字起こしします。

高2の時は「最近考えたこと」みたいなのがお題だったはず。

 

読み返してみると、荒削りとかいうのは当たり前だとしてそもそも語るに足る字数じゃなくて色々論が飛んでいる。そういえばめちゃくちゃ削った記憶が無いと言えば嘘になる。まあ少しでも読み手に刺さるところがあればそれでこちらの勝ちですからねこんなもんは

 

 

 

 

 

あ、無事入選しませんでした。

 

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

あなたが初めて人生に絶望した日は、どうせ誰かの誕生日。

                   高校2年E組○番 (なまえなまえ)

 

大人になるとは果たしてどういう事なのか、考え続けてはこの歳まで至ってしまった。そんな気がしている。買った本を直ぐに読めなくなってしまったり、通販で買って届いたダンボールを開封するのが億劫になったり年々携帯電話の連絡帳が薄くなっていったりすることは、果たして成長なのだろうか。夏休みが辛うじて僕を子供に留めている気がする。随分と前に大人料金を見始めたというのに、歌舞伎町が僕を受け入れる雰囲気は今の所感じられない。ただ、もしかしたらその考え自体がまだ甘いのかもしれないが。

ある課題図書でこんな一節を読んだことがある。

「あの人は確かに成熟していたのだと思う。」

「成熟するにはやはり一度きちんと死ぬ必要がある。」

その人が近くにいると昂った時には落ち着かせてくれ、落ち込んだ時には共にいるだけで意欲が沸いてくるような人、そんな成熟した人がどうやらいるらしい。また、そういった周りに影響を与える人は一度きちんと死ぬことが出来た人だともあった。

成熟ではなく成長になら心当たりがある。

分かりやすい成長について見る。

髪を切る度、それは己の成長を否定していく行為だ、と思う。爪を切る、カサブタは取れ、傷跡も消えていく。意思だけがそこに連続してある。

誰かと疎遠になる時、僕がその誰かについて知っていることはその時点で途絶えて更新されることはない。それはつまりその人が僕の中で自殺しているということだ。大切な人が出来ては死に、一時的な悲しみに苦しんでは別れすら忘れてしまう。詳細な思い出は消え去り因果関係のみが遺る。

髪を切る度誰かを忘れる度に、人知れず肉体の一部が死に心の一部が成長している。また同時に心の一部が死に肉体は成長してもいる。緩い反比例を描きながらその曲線は確かに原点から離れていく。それを、成長と呼ぶのかもしれない。歳を重ねるとZ軸の値が増えていき物事を俯瞰出来るようになる、という言葉を貰ったことがあるのでこうした歳をとる度に物事を俯瞰していくという感覚は何人かには共通する感覚なのだと思う。

時間軸の観点から成長を見る。

例えば好きなバンドの作風がいつからか変わってしまったとしたら、ファンを辞めるだろうか。今ドームを埋められるような業界人も、小さな会場でやっていた頃から成長してきて、そうして今大きな会場で彼らを生きているのだろう。ただ、それも過去の自分を殺さなければ出来ないことのように見える。彼らは、舞台に立ち人の前で輝くような人達は、今を更新しながら生きている。そこに美しさなど良さを感じてファンが生まれると思うからだ。そしてそれは常に過去の自分を殺さなければ成されない。生きることは死ぬことだと思う。生きている心地は死ぬことで分かるのかもしれない。

鑑みるに、成長とは過去の自分を殺しながらある一定の方向を目指して移動していくことだろうと思う。その方向は人によって違うし途中で目的地が変わってその分の年月がハンディキャップになることも、あるのだろうと思う。

と書いたところで別段成長は悪いことではないと思う。だから特別悲しいことはなく、ただ少し寂しいだけだ。子離れ出来ていない親の心情も、きっと同じようなことだろう。

さて成熟についてである。

個人差はあれ、成長を基盤にして成熟していくという傾向は法整備の観点からもそれが読み取れる。

さてここでは、精神の成長を成熟と見て良いのかということが問題になる。

前述の本を元にするならば、精神の成長を経て周りに良い影響を与えられるようになった時、その変化を外側から形容するに成熟が相応しい、と言ったところだろうか。

他人に良い影響を与えるが精神は成長してないという人は存在するか。これは生物によくある例外で子供を当てはめるのが妥当であるように思う。子供らしい何にも染まっていない思考は時に恐ろしく鋭いものである。大人の場合はどうだろう。良い影響というものの定義にもよるが概ね他人に影響を与える人物は精神がしっかりしていることが多いようにも思える。該当の人物が居ないということはないだろうが数はきっと少ないものであろうし、その大半も幼稚性を元にしたものが多いのではないかと推測する。

ではその逆。他人に良い影響を与えるとは言い難いが精神は成熟しているであろう人。厭世観の酷い人などがそうだろうか。他人に悪い影響を与えるとは人をやたら罵倒するとか他人を頼ってばかりとかが思い当たるが、そういう人達は総じて自己肯定感が低いとかの精神的要因神大きいのではないかと思う。

どちらの人物も居ないことはないのだろうが少数派であり世の傾向として捉えることは難しそうだ。

はっきりとした結論の出ない文学のこういった曖昧な部分は実に科学的であるように思う。科学は往々にしてそういうものだというイメージがある。そして思考を書き記すことの意味が答えを出すことに無いのも確かであると思う。思考の過程に意味を持たせてくれる、そういう教育環境であれば良いなと思う。

そういえば社会科の発表学習の際にも青年期の課題で発表していたことを思い出した。死に近づきたくなるのは若者にとって不自然なことではないという言説も思い出した。つまりこうして述べてきた少し暗く見えるテーマであっても当人からすれば至って自然な、ある種生理現象的な思想思考の過程であると思う。加えて言うならば至って健全な。全若者が当てはまる訳では無いと思うがそれでも極限られた人数という訳でもないのであろうから、こうして若者は今日も悩んでいるのだ、と思っている。インターネットが発達して大方の行動が記録されるようになった社会で若者は常に失敗出来ない、本番の緊張した状態に晒されている。カード決済が主流になり貨幣が根絶した社会の若者はお金という形のないものを身近に捉えるのかそれとも哲学のように小難しく捉えるのか、どちらにせよどの時代に置いても若者は流動的で未来のある眩しい存在だと思う。それを自負して旧世代の人々を見下し心の平穏を保つ日々からの脱出。その時は、今も想像がつかない。

卒業文集

 

書いたやつ。

 

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

いつかきっと僕達は渋谷のスクランブル交差点ですれ違うという確信と、あんな人混みの中で見つけられる訳がないという絶対の自信だけがある。

InstagramTwitterTikTokと数十年後には全部無いとしたら、一体何が僕の青年期を証明してくれるのだろう。だから、精一杯退屈と手間を愛し抜こうと思った。

雨に切なさが溶けていく、だからきっと感情は水溶性、理性はきっとアルコールで。

芸術は愛と金がなきゃすぐに死ぬ。だから好きな人にはすぐに愛に行け。行きたいライブは迷わず行け。着たい服などさっさと着てしまえ、どうせいつかは、好きじゃなくなる。好きな内に、愛しておけ。

いつだって初めて恋をする時のように、君に恋をしよう。

君以外の女の子なんて、皆同じに見える。

大丈夫、皆息してるだけでめちゃめちゃ偉いし、生きてるだけでめちゃめちゃ可愛いよ。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

実際は改行出来るほどスペースありませんでしたグッバイ。

 

 

 

 

 

 

 

以下長文。

君の最寄りまで行くとしたら僕は渋谷乗り換えで行かなきゃならなくて、君もいつもは渋谷を使うか、使ってるかしてたはずなんだな、

 

だからきっと今でも同じ空気を吸いたいと願うなら、あのスクランブルが1番君の密度が濃い。

いやまあ最寄り行けば1番だけどよ。銀河の単位で言えば関東なんて添い寝ベッドですよほんとに。

 

 

そんな訳でもし気付くとしたらー必ず衰える顔はマスクで隠されてしまって少し慈悲があるけどーあともう背丈とか手の甲のあの血管とかでしか分からない訳でして。

 

 

見たらねぇ、絶対分かると思ってるよ、でもね、なかなか無理があるんだな。分かっちゃいるが。

そういうものを一期一会と呼ぶなら、じゃあ今手元に残ってるこの糸達はなんなんでしょうねぇ、

 

 

 

 

 

「インスタ」「ストーリー」「呟く」「青い鳥に」「投稿」「幸せ自慢」とか書かれた歌詞やら物語やらが日夜山程生み出されていますね。

若者にとって廃れたといっていい例えばmixiなんかを例にすると、わかる人にはわかると思うが、足あととかマイピク申請とか、そういう界隈の言葉は今や懐古する為の道具でしかなくなってしまって(運営ごめんね)

懐かしむことに関してはとりわけ最高の切なさをもつこういう語を、僕は好いているけれど、やはり僕にとって実感の強いのはつぶやく方だ。

だからこの「今」の言葉たちが輝くのは今の音楽の中じゃなくて今が昔になった時、もっといえばTwitterが滅んでからやっと始めて美しさを得るんだと、思うから僕は大切に愛でながら、とりあえずTikTokは滅んで良いなと思いながら音楽を聴く。

 

 

近代、現代という名前の後はどんな名前が付くのかしりませんが、現代の考古学者にだけはなりたくないですね。

 

 

 

 

 

 

ぴえん。感嘆詞。悲しみを表す文の後ろにつけて事物の為す術なさを表す。令和初期の若者に良く見られる。一説ではInstagramが発症とされる。

 

卍【まんじ】

①寺院の地図記号

②感嘆詞。平成初期用法と令和初期用法がある。「まじ-」など。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そういえば最近知った話ですが、純文学ってのはその当時の世相が現れた小説のことを言うそうですね。『推し、燃ゆ』がなんか受賞してましたが、現場通うタイプポケモンの私としてはとても嬉しいです。性格はおっとり。

本屋で立ち読みして1行目で購入を決意しました。地下ドルもといオタクは時代の波に乗ったということですよ、ええ。

 

うーん流石に地下アイドルは無くならないかね、濃厚接触が売りな上に人々は不景気で温もりを求めますものね。

男性地下アイドルがよく昼ライブをするのは闇が深いですね、別に大したことではないが。

 

 

 

 

そんなこんなして黒歴史クリーナー酷使すると苦悩の歴史が消え去るのでハッピーな訳で、生きたことを帳消して、人は死を克服して、

そうねぇ、ワイヤレスイヤホンを買わない理由はそんな感じです。

勿論スマホ以外の機器を毎度充電出来ないのがデカいんですが。エネループ位の期間でいいなら考えますよ。

 

 

イヤホンのコードをほどく時にイラついたら疲れてるのでさっさと寝た方が良い証拠。巻いて収納する時に愛しく思えたら僕が生きてる証拠。

 

 

 

 

梅雨入りしそうな時分に書いています、とこう書いておくと後でえもくなれる即効頭痛薬:歳時記。

傘の利点は濡れないこと、後は重いし足とくるぶし位は余裕で濡れるしリュックもアウトだし本屋入れないし最悪。

学生の時分だから、多分と付けないと理性が有機物であると述べられないんですね、可愛いこった。

 

 

 

 

 

推しにはすぐ会いに行った方がいい。就職しちゃうよ、ああつまり解散するよ。

これまで運が良いので、アーティストが峠を超えた所でしか好きになったことがないんですけど、山の向こうには沢山の山頂を越えられなかった死体がおむすびころりんして、AutomaticTellerMachineを叩くと生きてくだけの小判は出るようになったが底に追いかけていた夢は多分ないんだよね。

 

夢もお金もあるにはある人達は運がいいね。おめでとう、私の好きな人達。

 

ロリータもさっさと着ちゃうといいね、老いると似合わないからではなく、後悔で飲む酒は炭酸リチウムと変わらないからだよ。

 

私はどうなるかな、執着ストーカー作っちゃったから地下アイドルは向いてなさそうだな、音楽は別に上手くないんだよな、小説を書けるほどの体力もなくて、まあずっと思うこと書いてくだけなら9時5時でも生きてけるだろうな、今もう9時5時なんてないけどさ、

 

 

『いつか別れる。でもそれは今日ではない。』

から着想したこと。引っ張ったのはタイトルだけだね。タイトルって付けるの難しいねぇ。名詞が1番難しいんだよ冠詞前置詞可算不可算…色々考えなくちゃいけないからね、って英語の先生が言ってたし。

春はあけぼの、国語は睡眠。当てられた時に起きて隣の人が小声で答え言ってくるのがウザかったなぁ。侮辱だよアレ。

彼は今元気に何かの主題歌を歌っているそうです、学生時代に彼にメンクリを勧めておくべきだったなぁといつかREUNIONで思う日が来るでしょう、同輩諸君。

その時はショットですショット。それしか道はありません。えっ?コカボム派…?

 

…そうですか…私はミモザが好きです…

 

 

 

 

 

 

 

「君以外の女子なんて、皆同じに見える」

メジャーデビュー前の、なんなら初の全国流通版の、更に1つ前のアルバムの、ラストの曲の歌詞から。YouTubeにはまだあったかな。俺はメルカリです。

 

その前後は、作詞した人が昔のブログに書いてたことを受けて書くなどしましたがそのブログはもう消されました。

また1つ彼らの歴史が消えていきました。

生きるとは死ぬこと、メジャーデビューすることと曲調が変わることはイコールではないけど、ニアリーイコールと呼ぶくらいなら怒られないかもしれない。

 

 

全部好きだよ、全部好きだと言えるだけの気概がないなら、その頃のピラミッドを拝んでいて下さいね。きっと次期に神官団が力を持ってアメンホテプ四世という新しい推しが出来ることでしょう。僕はあーちすととファンの二人三脚に参加してますので。N人(N+1)脚。

N人二脚。

【悲報】危険すぎる令和の運動競技とは…?

 

 

 

 

 

 

恋をする度に恋の定義が変わっていく人、

恋を重ねたままでありたい人、

昔の恋でありたかった人、

不忍池のような恋の人、

恋をするが分からないままの人、

分からなくてもそれでいい人、

恋より先に進みたい人、

恋でしか生きられなかった人、

 

マジでないなら、別に問題にならない。本気-maji-だから騒ぎ立てるなりかし。

 

 

江戸でさえ春画歌舞伎吉原、

戦国でさえ織田信長

古事記日本書紀で乱交パーティ好色祭であるならば、歌舞伎町にいる(?)春売の少女のがよっぽど多分僕なんかより日本人らしくて、

僕達は西洋に汚れているのかしら。

アジアの王室が長続きなのは一夫多妻だからなんだって。あ〜百年戦争の音〜。

 

 

 

 

 

 

未来の私か又はわずかながら未来の読者の為に記しておきますと、今現在は呼吸器系の疾患が大流行しているので本当に生きてるだけで偉い(凄い)環境になっておりまして、なのでインターネット黎明期メンタルヘルス板の住民をここに持ってきてはどうでしょう。

数割はもうそちらで後世でしょうけど。

 

 

才色兼備マン達が交配していくと何世代か後には下級国民と交配できなくなる=生物的に別種になってしまうとやらを聞いた事がある。

 

だからブス専は本来素晴らしい人物であるはずなのです、いやそもそも本人達はブスだと思っていない人が多いと思われるので失礼な話ですが。

だからといってでもシンデレラコンプレックスが弾圧されるのを止めない訳では無いし

アリスコンプレックスも実害を出さないならば別にすきにして欲しいし、

五輪公式キャラクターのえっちな絵が公開垢で載せられている勝たんしかCOOL JAPANなんですよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コンプレックスはどうやら克服する必要はないらしい。このコンプレックスは俗語的な意味のコンプレックスであり心理学的学術的語源的なものでないとする。

いや、学歴コンプはちょっと嫌か…?

 

過去を振り返れば屈折しすぎて歴史の光が届かないくらい捻りくねった人生も(だから歴史が黒く見えるようになる)(そんな過去記事がここにあった気がするな)、

別に元に戻さなきゃ行けない道理は無くて、感情も別に逐一言葉にする必要はないらしい。

 

勉強と部活の両立を放棄し感情を140字で書きしたためる生活をして人格形成した身としてはやっぱり己の感情は言葉にした方が良いのではとか思っちゃうけどね。

母語だけが貴方の最適ではなかったのかもしれないし、まあ色々あるよね。

 

 

生き方は自由だ。より正確に言えば定形外も発送出来るようになったのだ。土日は銀行しか使えないままだけど。

自分は出来ない人間なんだーと思うなら多分そうだし、だから空腹は最高の調味料だしプラシーボ薬はとても良く効く、サプリメントはこないだ飲みきっちゃったな、健全ブロンユーザーだけどなんとなく瓶は取っておいちゃうな。

薬で自己の特性が消え去るなら、さて、そろそろ腸内細菌のお出ましかしら。

 

 

他者暗示が上手いなら多分自己暗示も上手くて、僕はどちらかと言えばこれだけど、

自己暗示が上手すぎてそのことに気付いてない人は不幸せなままかしら、

救う義理はあるかしら、救うことがそもそもエゴかしら、変われない自分で居たいだけに見えるような、

別にそんな啓蒙する意図はありませんが。

 

 

 

死なないでね、そしたらせめて会いに行けるから。

自殺者が跳ねられる煉獄ってどうだろう、自然死の人だけが行く天国は?そしたらまた自殺者を救う為だけの宗教が分化するだけか。

 

 

 

 

 

ぼくがいなくてもきみがいきていけるためのおまじない、ぼくはきみのいきてるすがたがすきだよ。

 

 

 

 

 

甘党だから甘い言葉しか吐けなくなってしまった。メロンソーダくらい毒色言葉やプルダックンなんちゃらシェンマsomethingくらい辛色言葉を吐けるようになる日は来るかねぇ。

 

 

 

 

 

 

 

 

このサイトの一番最初の記事か或いは初期のどこかに、座右の銘が無いなあみたいな話を書いた記憶がありますが、

無かったらネットの海のどこかに落ちて錆び付いてるかと思いますが、

この文集には

「惰眠を貪れ、3秒で冒涜!」

と書いてありました

 

 

平安貴族の人格が優しく教えて曰く、「睡眠至上主義、課題より仕事より締切より睡眠」「歴史を踏まえてからそれを乗り越えて新しく作っていけ」とのことです。

戦争より悪魔より月曜の朝が恐ろしかったはずなんですが眠ると何もしなくていいことに気付き早寝の習慣が付いた結果老人起床になってしまい全く怖く無くなりました。おばけなんて嘘さ、と歌う少年もいつか青年へ、不安定な時代を生きた君から。

冒涜なんて青い鳥ユーザーはbefore breakfastですが流石は平安貴族ですね、とてもよく偽装することが出来ています。どうでもいいけど古語の訳語すら自分達の感覚とかけ離れた言葉に感じるの、自分達の乏しさか或いは言語の限界を感じるね。

 

 

深夜は悩むのにもラブレター書くのにも考え事するのにも何もかも向いてないんですけど、そこには息がしやすい時間帯が確かにあって、息がしやすい人達が確実にいるんですよねぇ…

朝は起きれるタイプの社不が沢山居る場所はどーこだ?

大学教授は大体そうだと思ってます。たまに起きれない人も居ますね。知りませんけど。

 

 

きっとこの記事で更新が終われば、

1人の人間が座右の銘を見つけて行くまでの話、みたいに綺麗に終わったんでしょうが、キノコ派たけのこ派と問われればアルフォートホワイトチョコカカオクッキー派閥と帯に短い人間なのでハチマキにして行こうと思いますがどうでしょう。

嘘かも、塩バニラ味も捨てがたいですね。雪塩ちんすこうのこと僕は「神の食べ物」と呼んでいます。最近たまにコンビニでも見かけるので大変ハッピージャムジャムです。

まあこうやって製菓会社に貢いでる限りは僕もきっとまだ言葉が口から出てくるでしょう。

なんということでしょう、ペンだこが吐きダコに見えてきました。幸か不幸か指は同じです。ところで僕は最近ペンのもち過ぎで親指の指紋が消えました。気付くまでスマホのせいにしててごめんねHuawei

 

 

 

 

まとまりがなくて因果も意味を成していなくて、多分英作文の先生なら、日作文の先生なら0点を貰うと思うんだな、僕は作文コンクールで良い評価を貰ったことがない人間だし。それでもなんとなく素晴らしいと言う一部のマニアが居るから書いてみる、出会わなくてもきっと書き捨てていたけど。そういう気持ちの人が沢山居るのは、世界の傑作散文・詩を見れば明らか。

シェイクスピアルバイヤートの英訳も英語じゃさっぱりわからなくて腹立つなぁ。じゃあサルトルなんて永遠に分からないままじゃんか僕達は。孔子で戦うしかないのか?

いや漢詩ならちょっとは分かるかね、サンキュー聖徳太子(の頃の人)。先生がピンイン読みしてるの綺麗で美しかったよ、そこだけしか起きてなかったからかもだけどさ。

 

 

 

一生に全ての本は読めないと

知った頃から増える積読

 

 

 

 

 

 

 

アテネ・フランセ通ってラテン語やれって高1の頃の僕に言っておいてね誰か。彼今頃決別で死にかけてるだろうから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以上長文、愛をこめて未来より。

P.S.バッテリーが死にそう

盟友

 

恋をする、それだけで何故か生きていけるような気がしてくるのだ。

 

 

 

 

インスタグラムには今日も同輩が本日の出来事を載せている。

落ちていく日常を見返せることだけは、本当に君は優れていると思うよ。

 

 

写真を撮る程には美しくない日々の夕焼けを僕は今日も横目に帰宅する。

 

 

 

 

日付設定の狂った写真とさほど美しくない日常のせいで更新されないカメラロールを見返してはまた今日の出来事を葬っていく。

 

インスタグラムのストーリーに、単色の背景と文字を載せる程には、精神も主張も、そんなに強くない。

自分でないものを、ああいう所に載せるべきではないと思っているものだと、思っているが、誰しも本当にそのようであるか?

 

 

 

 

本当に本当に恋をしていて、幸せで血中オキシトシン濃度バカ高ボンバーであるならば、僕はきっと君を例えて同人誌書こうと思ったりはしない。

 

思っただけでやってませんよ?まだ書いてないだけともとれますが。

 

 

 

 

 

 

 

 

恋というにはやはり君への感情は汚すぎる。

愛というには何も求めなさすぎる。

性欲というには僕達はまだ子供すぎる。

 

SNSで自慢出来る程神経強くはないし、

誰かに言ってしまったらその瞬間に僕達は終わってしまうような気がするんだよな。

 

それこそがもう独占欲なのかもしれないけど、

 

 

 

天邪鬼ということが、「世界のバランスを取りたがる」ことなのだと解釈した今、

 

僕は君と変わりたくないだけなのかもしれないと、思えるようになったよ。これも成熟なんだろうな。

 

成熟は、髪を切っても否定出来ません。

 

 

 

 

 

誰にも言いたくないけど誰かに言いたい

それは我々ヲタクの住処Twitter

 

24時間で消える投稿自体は素晴らしいと思うんだけれど、日々はやっぱりそんな彩りよくないし、素うどんばっか食べてるよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あれ程好きだった恩師のことを思い出さなくなった、ということをここに書くことで嘘にしようとしている。

 

僕の血肉になったあなたへ

まだあなたは生徒を洗脳していますか?

僕の洗脳は解けて無くなりません

 

 

 

 

 

好きなあの子が僕のこのアカウントを特定して、もしくは口の軽い僕のことだから既にもう知られていて、この垢を監視されたり、夜に泣いてくれたりしてたらとっても嬉しいなあ。

 

 

君と何かになりたい訳じゃなくて

君の助けになれたらいいけど

久々に話してみたらやっぱり僕達、

音楽性もとい芸風の違いで破綻しそう。

 

 

 

 

 

 

 

 

カメラで撮られるのは平気になったんですか、

僕のパソコンに居るあなたは数多の画像の中でマイノリティですが、

僕以外の誰かのカメラに微笑む貴方の写真がインスタグラムに投稿されているのを見ました、

僕ではない誰かに微笑む貴方の写真を、

 

僕はスクショして保存しません。

 

 

 

 

いつか貴方の身体に穴を開けたいと思っているよ。

保存

 

好きな子の下書きに眠りたい、僕はあの子の心に居たいだけなんです。

 

下書きを殺す歌。

 

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

 

 

久しぶりに何も出来なくなった

 

元々何も出来ない人間だと言うのはさておくとして、一日中寝こけていた。

 

何も出来ないので何もしない他無く、結果眠りの一途を辿るのだ。

 

 

 

そういえばその眠りの中で、良く夢を見た気がする。普段の睡眠であまり夢を見ることがないから、僕はきっと日々を単純に過ごしすぎていた。

 

 

 

 

昼飯を食べるためだけに起き、満腹の感覚が嫌になり横になる。寝る。夕飯を食べるために起きる。

 

 

おかしい。夕飯を見て思うのだ。

おかしい、腹が減っている。

 

昼飯の後は寝ていただけだぞ、そう思って食べ始めると3口目できちんと満腹になったので安心した。

 

 

 

 

その前は、そうだゲームをした。

久しぶりだ。

 

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

推しに無条件に祝われる

盛大に祝われる経験若い時しか無理

こぼして行くのは勿体ない

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

課題で人が死なないのが

とても不思議でならなかった

現実逃避をする時に

買い出しやらで外に出る時

靴を履く時に思考に走る

このまま家出できるんだな、

行方不明になれるんだな

結局それをする勇気

なんて持ち合わせてはいないので

いそいそ歩いて帰るのです

とぼとぼ歩いて帰るのです

帰路を変えては見るものの

自室の机は山積みの課題で

家は缶詰めのホテルのようで

帰る気になんてならないが

それでも人は青く光り

赤信号に止められて

青信号に歩かされ

見えない何かに圧されつつ

圧されて圧されて歩くのです

 

 

 


レポートに対しての恐怖心が拭えない

怖くて恐くて仕方がない

おそらく返却されて赤文字で

僕の全てを頭から全否定される

あの感覚が嫌なんだと

トラウマになっているのだと

涙が出てくる

 


不自由だ。

僕はあまりに不自由だ。

死にたい時に死ねなくて、

食べたい時に食べれない。

僕が世界を突き放しすぎたのか

世界が僕を嫌ったのか。

程度こそある法ならば良いものを

理解有る親なしにして効くものと

承知して尚、まだ死にたい。

 

小さい頃、敬語やら作法をきちっとすれば

大人から褒められてしまうのではないかと

行為のその後が恥ずかしく思われて

何も出来なかったような記憶がある

僕は思う

捨て切れるだけの恥は捨てなきゃな、と。

 


男から男に可愛いと言っているつもりだ。

都合の良い時にだけ女になるのは

いつか歪みから割れると思った。

女から男に言われる可愛いが

こんなにも不快なんだと思った。

相手は僕を知らない。僕は僕しか知らない。

君は僕を知らない。君は表皮を形容する。

そんな皮膚なら溶けてしまえば良い。

痛覚なんてのは前世に置いてきた。

僕は今までの僕の業を背負って生きていく。

僕は一体どうすればいい。

 


どうも形容されるのが苦手みたいだ。

褒められるのが気持ち悪い。

1+1=2 だなんて当たり前のことなのに

どうして皆は僕を貶さない。

当たり前を褒めるな馬鹿め。

泥沼に住んでいるのに、

今にも出血しそうであるのに、

どうして、僕の周りに居る。

来世なんて待てないね、殺してしまいそうだ

 

 

変容

夕暮れ、なけなしの焦燥感で家を出た。西日を追ってそれとなく歩いた。

 

 

 

知っている道を歩きたくなくて知らない道を選ぶ。

下校中の学生達の群れに会って、

同級生とかどうでも良くなれたらいいのに、

と思った。

 

 

 

 

 

 

 

補充する必要のなさそうな自販機を通り過ぎようとすると

君がよく飲むらしい炭酸飲料が売っていたから買ってしまった。

 

matchの方が売っていたら僕は泣いてしまったに違いない。

 

 

 

僕と君の価値観の違いは、トイレに流された金魚の憂鬱に似た味がした。

 

 

 

そういえばこれを飲むのは初めてなんだな。

 

 

 

 

 

炭酸が抜けて口紅のような味がする。

 

 

 

きっと君が誰かとキスをする時、

思い出すのかこの缶ジュースだと思うと、

ちょっと性的。

 

 

 

 

 

 

 

今日もまた夕焼けを憎むことしか出来ない。

 

 

 

 

君から通知が来るまで今日は帰らないぞ、なんて

 

夏を終わらせるのが下手くそだから

人を忘れることも出来ない。

 

 

 

 

 

 

 

人気のない夜の住宅街には西日が落ちて星が瞬いている、誰のためでもない夕飯の匂いがして、少し憂鬱くさい。

 

 

 

 

 

 

散歩と称しつつ2駅も歩いてしまったけど

だからといってどうということは無いし

 

都会の2駅なんてコンビニが乱立していることよりも価値がない。

 

 

 

 

 

 

大丈夫、まだ僕は駅前で人を待っているフリをするけど、

 

 

君はそんなことないし、

 

愛した人に好きと伝えることを怠っていないから

僕はまだかろうじて人間で入れるような気がしている。

 

 

 

 

 

愛してるよ、とさえ言えなくなったら僕は君は世界は、

 

ってところが気持ち悪いっていうか厨二病っていうか。

 

 

 

 

 

 

職質されないようにもう今日は帰ってしまおうか。百数十円で数キロを買って帰ろうね。地獄と憂鬱で出来た僕の部屋に。

 

明日は片付けられるかな。

先生

思えば全部簡単すぎてつまらなかったんだろうな、と思う。

 

 

 

 

小学校の図書館には低学年向けに書かれた、フォントサイズと行間の大きな本ばかりが目に入るし、高学年向けの本は薄くて物足りなかったんだと思う。

だからこそ本棚の最上段に追いやられていた辞書よりも厚い「はてしない物語」を見つけた時は脳に電撃が走った。

その主人公も同じように古本屋で頭に電撃を走らせていたから同様に没入していきそれはそれは大層面白かった。

 

 

 

 

 

学習教材も、きっとつまらなかった。

 

月に一度送られてくる冊子を全て解き終えることも出来ずかといって毎日少しずつ解くことも出来ず、

たまに気が向いたら一気に解くが基本は白紙のままで、

自分は努力が出来ない人間なのだと思い知らされた。

 

思わなくても乱雑な机の上に置かれた物的証拠がこちらを見ていた。

 

今思えば別に簡単すぎただけだ。

 

 

 

だから中学受験塾は楽しかった。

電車を使う必要があったとこだけはめんどくさいと思うこともあったけど、

もし徒歩5分圏内にあったなら僕は良い思い出しか持ち合わせていなかっただろう。

 

だからTwitterで中学受験の闇を見た時は相当驚いた記憶がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

顔ファンの先生がいた。中3の時。

 

ちょっと前、先生のこと恩師とか言って美化出来るじゃんw、と思っていた。思うに、ガチで恩師だ。

 

 

 

何故好きなのかを考えるのが好きでTwitterのいわゆるリア垢にその先生のことをツイートし続けた。

5000ツイートくらいに及びちょっとした名物にまでのし上がった。

毎夜寝る前にツイートを見に来る同級生を爆誕させ、顔も名も知らず会ったことのない先輩にもそれとなく名が知られていて驚いた記憶がある。

それくらい頭のおかしい人だった、ということでもあるが。

 

 

 

 

 

その人が学校に居たのは2年だけだし関わったのは後ろの1年だけなのだけど、その後もずっと引きづっては細々とツイートしていた。

 

 

 

色々とあるけど、

見た目から入ったけど、

なんとなく好きな理由は、

 

その人が大人と子供の狭間に居てどちらにも馴染むことなく居るから、

青年期の私はその寛容さに惹かれたのだろうな、と思った。

 

 

 

 

主任の先生みたいに大人でもないくせに

塾の大学生講師みたいに明るいわけでもなく、

 

 

そのくせにほんの前まで小学生だった中1に授業でホロコーストの文庫本をオススメしたりするし、

およそ先生として教壇に立つ立場の人間じゃねぇな、と思っていた。

 

新任の先生にインタビュー★

みたいなやつで好きな〇〇をやたらと答えさせられるけど、

多分あの人感情持ってないから嘘だよと思ってたし、

元彼女とか言うけどお前が人を愛せるわけがない、と思う。

 

 

 

 

あの人が社会に紛れて問題になることなく今日でも彼の言葉を静かに聞く生徒が居るし

その思想を受けた人間が今後生まれ続けてしまうことが、

日本の抱える社会問題だとすら思っている。

 

 

 

 

つまり劇薬なのでした。僕にとって。

 

 

 

 

でもそれは大人なんだな〜と思った。

 

成熟していたんだなと思った。

 

多分どっかでちゃんと1回死んで大人になった子供だし、自分の闇をちゃんと自覚して、それを抑えているだなと思う。

 

 

 

僕も彼のおかげで1回死んだ。

 

だからその意味で教師として凄く最適な人なんだなと思う。

 

声の高い先生より、

人気な先生より、

闇が裏があると言われている先生より、

教え方が上手いと言われている先生より、

 

あの人の方が数百倍真っ黒で且つ真っ白な人生で、余っ程、師としてその素質があってその意味できちんと先生だったんだなと思う。

 

 

 

 

 

 

 

身体の親と精神の親がいると思うけど、身体の親に対する感情が薄い分、

きっと彼に抱く感情は多い。丁度視覚を失って触覚が研ぎ澄まされるように。

 

そんな人はTwitterでどう検索したら出てきて、どうやったら一覧になるんだろうね。

 

 

 

 

 

 

 

その人の、消えたTwitter垢名の、先頭の文字を打てば直ぐに変換されるキーボード内蔵の、よく出来たiPhoneより。

ビニール袋

 

 

めちゃ好きだった先生がいる

 

 

向こうにとってはバイトなんだろうけど、辞めると聞いて、5200文字の手紙を書いた。

 

 

 

読む前に燃やしてください、から始まり自分の好きだったバンドの歌詞を引用して終わった。

 

 

 

スマホに下書きしていたけれど文字数の関係で手書きを諦めて、A5の2段組7枚を印刷した。封筒には封蝋をして、この世の恐怖を集めた紙切れが爆誕した。

 

 

 

 

 

 

 

返事は次の週に別の人から渡された。

 

 

 

 

「僕の好きなアーティストさんにさいあくななちゃんという方がいます。6月に東京の岡本太郎記念館で展示をします。」

 

 

 

 

3枚目の裏にTwitterの垢名を2つも書いたけど気付いた素振りはなくて、ちゃんと燃やしたような素振りと火が綺麗だったようなそんな旨が書かれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

綺麗な男の子だった。

まっさらで個の無い感じ。

 

 

 

 

 

別れ際に好きな作家だったり花言葉だったりを教えてくるやつは総じて皆クソ野郎だと、僕はこの時に知った。

 

だからまたいつか好きなホモサピが出来たら、憎悪と愛と優しさを持って好きな作家やら歌やらを笑顔で教えてやるんだ。

ちゃんと僕のために絶望してくれよな。

 

 

 

 

 

結局、その展示には行くことにした。

まっさらな君が、何を持ってあの感情が剥き出しな作品を好きなのか、分からなかったから。

 

トークイベントにも申し込んだし本も買った。

 

 

 

 

 

 

それでも君だけは理解できなかった。

 

 

 

帰り際に作家さんにこのことを少しだけ話したけど、泣いてしまって上手く話せなかった。

 

 

 

 

絵は好きな感じで、君も好きだけど、

あの絵が好きな君だけは、想像も理解も出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

帰り、GoogleMapを見ながら帰るのは卑怯だと思ったから適当に大通りを歩いた。

目に付いたコンビニに入った。

 

 

 

 

仮にも都会とは思えない寂れたコンビニで、

店員の留学生らしきお姉さんは一言も喋らないし、

品数もなんだか少ないような気がする。

 

 

 

 

 

 

僕はコーヒーが飲めないけれど、君と話している時にその唇からコーヒーの匂いがするのは知っていた。

 

 

 

原材料名の糖の文字を確認して缶コーヒーをひとつだけ買った。

そう言えば小学生の頃、塾に行く前に飲んでいたものと同じものだ。結局クソマズくて2~3回で辞めてしまったけれど。

 

そんなことを思い出して、やっぱり今でもクソマズいんだろうなと思いながら缶を開けた。

 

 

 

 

最悪なことに、思ったより甘さが勝っていて、なんだか美味しさを少しだけ理解出来ているような気がしてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

成長してしまったことに絶望した。

 

 

 

 

 

 

 

 

君を亡くして僕は生き延びてしまったよ。

 

 

 

 

 

 

呪いかもしれない。

推量よりは断定が正しい文脈の中で、

君が好きだという作家のフォロワーの中で、

君の断片を思い出しながら生きなきゃ。

 

 

 

 

生きるよ。

でも絵を描いたり文字を書いたり写真を撮ったりする僕の人格は、いつも去り際の君のように酷く冷徹でありたいと思ったよ。

 

 

君の美しさは罪でした。

 

 

長い人生の中の片隅に存在するだけだった君を気に止めてしまったのは、きっと僕への罰でしかなくて、美しくはないなぁ。君と違ってさ。

天邪鬼

 

典型的な天邪鬼である、と思っている。

 

 

 

小さい頃、人にどう思われているのかが分からず且つそれに対してどうしたら良いかも分からずに不可解でぼんやりと嫌だったような記憶がある。

 

 

 

 

小さい子供に稚拙な言葉で話しかけてくる大人を正気かと思っているような子供だった。

 

 

 

今でもどうかと思っているので自分がそういう小さな子供と話す時は、

平易でという点は気をつけるが態度は友人と話す時のような砕けた印象で話すように心掛けている、

 

が故に、難しい言葉分からないよとか上から目線すぎるぞ、とかお小言と共に怒られる。解せない。

 

 

 

 

 

 

自分の年齢が若いだけで分からないだろうとか思われるのはただの屈辱で侮辱だろ。

 

 

まして子供に与える影響や挫折たるや、という話だ。

 

 

 

 

そんな子供だったから、子供は子供らしくしなくてはいけないのだろうかと思い迷惑をかけないよう静かにしていたし、

褒められると恥ずかしくて嫌で不快だ、

という天邪鬼だったので敬語が使えなかった。

 

 

 

 

 

今はもう少なくなっているが、会話の中でどう返事をしたら良いか分からなかった頃の記憶が色濃くある。

 

 

 

 

 

 

 

タイムスリップするとしたら、という質問がある。

 

 

どこまでも自分が好きな人だ、自己顕示欲の塊で気持ち悪い、と罵られてしまいそうだけど、

小さな頃の自分に人との会話の方法を教えてあげに行きたいなと思う。

 

 

 

もっとも、自分も他人も嫌いで生きることに苦悩している人間にとやかく言われても、

 

僕は僕なりに、他人が嫌いなりに自分を透かして見る位にしか時間を消費する術が無かっただけだから、

 

ナルシシズムとはちょっと違うような気がしている。

 

 

 

誰と居ても孤独に思えていたから、僕には僕しか居なかったのかも、しれないね。

 

 

 

 

 

 

さらに言えば、僕はさっき食べたご飯の内容も覚えてないような人なので、時間軸の自己同一性がまるでない。

 

だって記憶がないなら別の人じゃない?

逆に、記憶があれば、「君と僕」も1つになれるのかもしれないけど。

 

 

 

 

まあだから自分の過去の行動も、

 

良く考察されているために心情や状況がありありと分かるようになっている小説、

 

という意識なので、自分が好きという根源も別にinterestingだからということなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

元の話に戻ると、

会話の方法を教えたい、ということだ。

 

 

 

なりたい職業を短冊に書け、と言われても、

世界の職業を''ピアノの先生''しか知らなかったからそうとしか書けなかったように、

 

言葉を知らなかったが故に得てしまった屈辱感でちょっと苦しい。

 

 

 

捨て去りたいのかもしれない。

でも「捨てきれるだけの恥は捨てろ」と常々思っているから、

僕はまだ小さい頃のブツを捨て切れていないのか?

 

 

 

 

 

 

会話の始め方で、自慢からでしか入れない人が脳裏に浮かんだ。

 

僕はあれに近かったし、いや皆そもそもあれが最初なんだけど、抜け出せていないとも気付けないのは、見ててなんだか微笑ましい。

どれだけ評価されやすい頭の良さを持っていてもその幼稚さが君だと、僕はそれを愛することが出来ると、言えるよ。

 

 

 

 

 

 

別に親でも本でも、恥を感じないような、近しいものであれば割となんでも良かったはずなのに、自らが労する方を望むのは、やっぱり信用してないんだなぁ。

 

渾名

 

 

中学生の頃、「小学生の頃に呼ばれてて」、と真実を話せば半ば嘘と捕えられてしまうような理由で、本名と似つかない渾名で呼ばれていた。

そう呼ぶように強要した訳では無く自然に、そう呼ばれていた。

 

 

 

 

 

 

中1の自己紹介カードに渾名を書き連ねる時、

2~3回しか呼ばれて居ない「青リンゴ」という渾名を最後の方に付け足しておいた。

 

 

 

 

交友関係がギークなものでニックネームとは縁遠い人生であり、

呼ぶ呼ばれるのは苗字が殆ど、

という少年が苦し紛れに書いたものである。

 

 

且つ小学生の頃の同期が1人しかいない

(あまりその子とも仲良くない、話したことならある)

環境だったのも関係しているかもしれないけど。

 

 

 

 

彼曰く

「塾に行く時ポケットに入れていたiPodをそのまま学校に持ってきてしまい、

それを見た同級生が先生の前でバレないように揶揄して言った」

ものだそう。

青色はその機体の色から来ている。

 

 

「お前青リンゴ持ってんだろ、出せよww」

ってね。※所謂ようないじめではない(''www''の印象の上澄みは利用すると便利な表現だが上澄みだけではないのでこのようなことが起こる)

 

 

 

 

 

担任がその教え子にカードを書かせるだけでは飽き足らず無意味にその自己を周りに発表させる時、

何気なく言ったその渾名の出来損ないが挙句に

 

晴れて皆様の好奇心を沸き立たせて

 

無事彼の渾名となることが確定したのである。

 

 

 

 

 

 

という経緯で「青リンゴ」もとい略されていった「りんご」という人格は、段々と彼に馴染んでいった訳でありまして。

 

 

簡易に言うと本名の漢字を見て浮ついたような感覚を覚える位ね。

 

 

 

 

 

 

 

 

で、転機。

 

「''りんご''よりも(本名)の方が君っぽいからそう呼んでいい?」

 

陽キャsaid。

 

オタクがそれを断れるならその子はただの陽キャ

 

断る理由もないし、「りんご」と呼ばない人が居るとその周囲も同じようになっていって、何人かは本名で呼ぶ人が点在するようになった。

 

 

そうして、(そうなってやっと気付いたけれど)「りんご」は僕が作り出して生まれた中学生の僕の人格、を指す言葉なのだなぁと気付いた。

 

 

と今になって、中学デビューというか新しい環境で嘘のようなものをついて

偽り的な人格を作り出すことは案外可能なのだなと思った。

 

勿論、今年からは元々呼ばれていなかった渾名で呼ばれたい、と思っていたわけではなく

可能性を提示した中から周りが勝手に選び、

それに僕が迎合していった形でもあるので、

 

「りんご」は嘘でも本当でもなくただ純粋な人格を指している。はずだ。

 

 

 

ここまで人格を強調して言ってはみたが、意識では(本名)と「りんご」は同じ身体の中に居てきちんと整合したまま相容れている。

 

 

 

ただ無意識下ではきっとそうではない。

 

 

 

 

 

 

誰だって、自分一人で居る時と、家族と話す時と、親しくない友達と話す時と、好きな人と話す時は、完璧に同じ人間ではない、対それ用の人格が個々にあると、

 

僕はそう君達を信じているよ。

 

 

 

 

 

だから人はペンネームを、偽名を、使うんだね、金之助。

 

 

 

それを明かしたらどうなったかはまた別のお話、って文章がひたすら続く本を小4の時に読んだ記憶がある。

Never ending story、って言うんですけど。

 

 

(これを見て冷蔵庫にある旬を過ぎた萎びたりんごの存在を思い出したら食べるまでも無く捨ててしまうかカビを観察するかのどちらかをオススメします)

好感度

 

 

「これも課題です、決定です。嫌わないで笑」

 

 

 

「上がりようも下がりようもないから大丈夫だよ」

 

 

 

 

 

本当は「下がりようがないから〜」と言おうとしていたが丁寧に言葉を選びすぎた結果こうなった。

なんか無頓着な印象なのかもしれない。

 

 

 

不動の第一位なので上がりようも下がりようもなくて言わば神枠、特別枠であるのだけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

不動の第一位の場合好感度は「上がりようも下がりようもないよ」と言えるのではないか?

 

上がってもそれは好感度の値を上限突破するだけで順位は変わらないわけだし。

 

 

 

逆に不動のワースト1位でもそうなのかもしれない。幸いそこまで憎んでいる人物も居ないので実態はよく分からないが負の値なだけできっと同じ感じなのだろうとは思う。

 

 

 

 

 

 

 

ふと思ったけれど、好感度は1つの軸だけじゃないのかもしれないな。

 

X軸だけじゃなくてYもZも、その次もあるかもしれない。

 

 

 

友達としての好感度が高くても一緒に暮らすとか恋人とかになると乱高下するのはそういうこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「好きと嫌いが両方あって、嫌いの方が勝ったから嫌いになった」

 

 

 

 

突発的な自分の感情をそれだけ論理的に分析出来ているのにそれでもどこかに感情的な、説明のつかない要素が見え隠れして好きな文章だ。

 

 

 

 

 

というか感情を論理的に述べている文章は大抵好きなのかもしれない。

 

 

 

語彙力あるオタクの叫び、みたいなツイートはとても好き。

 

 

 

 

 

 

といいつつ私も感情が高ぶるとやっぱり手紙の文体でスラスラと文章が出てきて、

それを書き留めるも捨てるにも燃やすにも勿体ないような気がして、

 

そうやって仕方なく嫌われるつもりで渡しても、

逆に文才を褒められたりその執念も褒められたりしたことがあるから

 

 

オタク気質な人間と文章っていうのは切っても切り離せないものなんだろうな。

 

 

 

 

 

 

 

これを書いていて思ったが、

そうやって書きなぐった文章で相手のことを否定したことは1度も無いと記憶している。

 

 

恋愛基質の話にも繋がると思うが、

好きな人の存在は呼吸から細胞や思考まで全てを全肯定する、

癖があるというかそういうようにしているというか。

 

そういうところが相手の承認欲求にでも触れて好きになられるのかもしれない、と自惚れてみるなど。

 

 

 

 

 

 

でも、自分を相手に良く思って貰うのは簡単で、

 

というのも小学生の頃に気付いたものだから不完全だとは思うが、

 

相手のコンプレックスを刺激しない触れないでいて、別の良いところを見つけてあげればいいそれだけのこと、と思っている。

 

 

 

例えば背の高い人だったらそこに何も触れずに、私あなたの文章好きだよとかそういうことを伝えてあげる。背高いと大変そうだけど実際どうなの?とか。

 

 

 

 

 

また逆に身近に居る、他人を疑ったり意地悪をしたりしていて性格悪いと言われている人を思い浮かべて欲しい。

 

これは偏見だが大体そういう人は背が低い、もしくはその事を本人が自分の欠点だと思っていることが多い。

 

身長が低いだけで、自分は人より劣っていると思い込んだ故の防衛反応かな、と思っているが、どうだろう。

 

 

 

 

 

まあつまり人のコンプレックスは意外と身近な所に潜んでいて、意思決定にすら関わってくる厄介なものなのです。ということかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなことをしていると、見透かすようで気持ち悪い、と言われてまた友人が減っていくんですけどね。

初夢

 

 

初夢を見た。

 

 

正確には二度目なのだが内容を覚えてるという点で初夢ということにさせて欲しい。

端折ってしまえば要は好きな人が出てきたわけである。

 

 

そうして1日を過ごしたわけだが、

 

 

 

 

 

まあ空虚。

 

 

 

 

 

 

居ないことが日常で、それを今更悲しがっていることに驚いた。死んでも、やっぱり世界って廻るんだな。びっくり。

 

 

 

 

 

 

人生の依代にするのは物である方が良くて生身の人間はその人が可愛そうだ、なんてツイートを昔に見た。

 

じゃあ死んだと見なしている人間はどうなんだ。

 

 

 

会えなくて、だから自分の中のその人への印象も死ぬまで変わらないで、

君はそうやって生きるしかないないんだよ

と僕を決めつけた、そういう意思を持つ人。

 

 

生身の人間よりかはマシではあると思うけれど、でもエゴを言うなら許されては欲しい。やっぱりね。

 

 

 

 

言葉の節々から知性が見え隠れしていてとても素敵な人だった。

その人の好きなものか嫌いなものででしか世界は出来ていないのだ、と僕は知っている。

 

 

街を歩けば記憶が思い出されて、酷い時には幻覚と幻聴も付いてきて、食べ物は勿論何か洋服やブランドまでもが、思い出のせいで汚く見える。

 

 

 

人から好きになられることは罪なのかもしれない。

 

 

 

 

それともなければ自分は何か業を背負って生きてきたっけか。

 

 

 

 

綺麗じゃない感情の方の執着だとは知っているけれど、

だからこそやる宛がなくてこうして言葉にして、

吐瀉物にされた言葉が0と1に変わって空想に積もっていく。

 

 

 

見返りの無い恋は美しいとも醜いとも取れるけれど、

それは結局愛も同じだしなんなら人間も街灯も木陰も元々はそうだったと思えて虚無になる。

 

 

一連の、気持ち悪い、ストーカーともとれるような行為を一途と称されて、

見透かされたようで恥ずかしくて、返答に困った。

 

僕は一途で居て良いのかと許可されたようで(多分ダメだけど)、本当は心地良いのだな。

僕の深層心理は君だったんだな。

 

 

 

 

浅野いにおさんの「ソラニン」という作品で、そのインタビュー記事で、作者が描きたかったことは死者は忘れられてただの日常になる、みたいなことだったらしい。

 

 

もう会えなくなることが分かった時、そう直接は言われなかったけれど嘘が下手くそだなあと失望した。代わりにその愛しさと優しさに帰り道で死ぬほど泣いた。

 

そんなわけで鈴虫の鳴き声は今でも苦手。

 

 

感情が失われたと思えるくらいに喪失した後も、結局は今これを書いているように僕は、

ぼやぁっと生きているんだよなあ。義理堅いね。

 

 

 

だから君が美談になるまで君を愛そうと思ったわけなのです。

そう考えると僕は、きちんと君を亡くせたような気がしている。

 

 

 

あの人はちゃんと死ねたのかなあ。

 

 

好きな人には好きなうちにお金を掛けておくと良い。らしい。

 

師匠と呼んでいる知人曰く。

 

 

 

そんなわけで私はきちんと、好きな恩師の誕生日にはN万円のプレゼントを渡して学年主任に呼び出しをくらったし、

そこで主任から悪戯の定義について説教されるという謎の空間も生み出した。

 

 

 

 

好きな対象がアニメとかならまだ良い。

 

アイドルとかでも、言ってしまえば金儲けが目的のコンテンツにお金を払うのは限りがない。

ただただ好きという鬱屈とした感情が晴れるし、winwinというやつである。

 

 

 

しかしそれがなんでもない普通の友人知人や上司だったりする時にはどうしたら良いのか。

 

 

 

 

 

 

たまに、こちらが生きてしまっているのが申し訳なくなるくらい聖を感じる人に出会う。

社会的に偉いとかではなく、その人間性を評するのに神と使ってしまうような、そんな矛盾した存在。

 

出会った時に完全にそうではなくてもその素質を感じる、という場合もある。

 

 

 

その時、どうやってその神未満にお金をかけたら良いのだろうか。

 

 

 

 

 

その人が素敵な言葉や思想、考え、思ったことを享受したい、その己の身勝手な欲はどこにお金をかければ果たされるのか。

 

要はその人の脳味噌からの抽出物に貪りつきたい、ということである。

 

 

 

そのために必要となる資金を援助したい。

というかそれしか私に出来ることがない。

 

しかしどうやって。

 

 

 

 

 

 

これについて悩む時、舞台俳優のブロマイド制をこれほど恨むことは無い。

 

ちなみに奨学金とか、大それたことは出来ないしあまり意味も見いだせないのでやりたくはない、だからそういった教会の設立予定はないしそうやって出会いも少なくなっていく。あとは純粋に桁も足りない。財布が緩いとはいえ出せるのは所詮はその人のお小遣い程度だ。

 

 

 

 

 

そうして、たかだか生まれた日を祝う、さらに言えば1つ死に近づくだけの、誕生日はこのためにあるのだろうな、と。

 

あとはバレンタインだろうか。

 

でもそのくらいだ。

 

 

 

 

 

 

 

さらに言えば、そういった言葉は散文で取り留めのない、Twitterの裏垢くらいの気分で書かれる言葉が、1番、その人の色が出ていて強くそして素敵な文章となっていることが多い。

 

 

 

更にお金をかける要素が無くなっていく。

 

 

noteでも開設してくれればまだ良いものの。

 

 

 

 

 

その人達が人生に苦悩して吐き出す、強くて素敵な言葉を、ひっそりと眺めながら、そして心を抉られながら、

こういう言葉を吐きたい、と常々思っている。

 

 

罵倒語

 

 

 

 

深夜はあらゆる芸術が生まれていたりする。

ベッドの中で考え事をしていただけなのに

早く寝ろだなんて、

 

 

寝てるから。それなりに。

 

 

 

 

 

 

 

 

思えば別に、とある子と、縁が明確に切れたわけじゃなかったなって思い出した。別れを告げられた訳でもなくて、自然消滅。

 

すれ違えば避けられるし連絡は既読のままなだけでブロックされてないしだからその分生々しく他人のままな人。

 

 

 

 

 

 

豪雨みたいな歴史だったな。すぐ仲良くなってすぐ消えてった。

雨みたいな人?物理的にね。

 

 

 

 

 

 

 

人との縁が切れる時に、自分の落ち度だからって割り切ろうとするんだけど、

まだ下手なんだよな。

 

そんなだから、未練タラタラサブカルくそ野郎の人格を借りてしばらく生きることになる。

 

あと同時に向こう側を神格化してもいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

メンヘラ、ヤンデレにも種類があるんだ、ってオタクの叫びのツイートの中で信仰系メンヘラってのがあった。

ちょっと身に覚えがあった。

 

 

 

多分法スレスレの更に手前くらいは行ってるだろうから、つまり法の2.5歩手前位で、詳細に書くのがはばかられる。

あだ名が変態ってところで察して欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そう言えば、気持ち悪い行動をして人に「気持ち悪い」って言われると「ありがとうございます」って答えちゃうんだけど、

即答するところは治したい。

 

 

思うことは別に悪くないんだろうけど、

即答しちゃって相手の不快感を増幅させてしまうのは思うところではない。

 

 

 

 

 

 

それでもってなんで気持ち悪いって言われて嬉しがるかって問われて一言では答えられないなと思った。

 

 

 

 

 

まず、多分、その気持ち悪い行動をやる動悸として、こんなことしたら気持ち悪がられるかな?というのがあるのだと思う。

だから予想が的中して嬉しい、という感情。

 

 

 

 

 

あとは、気持ち悪いという感情が汚いものに向ける感情、マイナスの部類だからだと思う。

綺麗な人に暴言を吐かれて、そう、だから彼岸花みたいな美しさを感じているのか。

 

 

 

 

 

あとこれは認めたくないけど、構ってくれた、みたいなこと。

僕に感情を剥き出しにしてくれた!、みたいな。

 

ACの自覚はないんだがなぁ。

 

 

 

 

 

 

あんな優しいあの子にあんな酷いことを思わせてしまったなんて、僕は相当ひどいことをしてしまったんだろうな、

それが何かは分からないけど。

 

 

 

 

 

これが僕の今回の結論ということに落ち着いた。

 

それでもブロックされてないのは彼女の優しさだ、

なんて思わせてくる精神の自己防衛本能は、本当に憎めない。

人間の本体ってもしかしてこいつだったりしてな。

 

 

 

 

 

うん、満面の笑みを添えて気持ち悪い。

 

後悔

 

黒歴史って、方向転換をしたから黒くなるんじゃないか、

って、ずっと思ってる。

 

 

今の自分と昔の自分がかけ離れているから昔の方が嫌だと思うわけで、

若いまま突き進めばそれは黒歴史にはならないんじゃないか。

 

 

例えば厨二病だとか、大人になるまでやってたらそれはその人の個性だよな。

まあ皆が皆受け入れてくれるわけではないけれど、

充分にその人のアイデンティティにはなると思う。

 

 

特撮とかプリキュアとかの幼児向けコンテンツを、小さい頃からずっと好きでいられた人って、

もし居たとしたら凄く幸せなんだろうな。

 

小4あたりで、まだ見てるのかよとか言われて好きであったことを捻じ曲げてしまうのは、単純にただただ悲しい。

 

 

普通におじさんお兄さんになってからも好きな人はいるし、おばさんだってお姉さんだって好きな人はいるのに、

年月は関係ないのに、

 

そのまま好きでいていいのに、

 

 

でもその子にとってはその言葉が世界の中の大部分を占めているわけで。

 

 

若い内に習い事とかでコミュニティが増えることは良いのかな。

でもその年代で多様な意見ってのもあまりないのかもしれない。

 

自分がそうでなかったから分からないけど、幼い頃は大人の意見に合わせていたような記憶があるから、きっとそうなんじゃないか?

 

 

自分だけ、という疎外感は生きて体感し得る絶望のひとつ。

 

 

 

 

 

友人と幼なじみの話になって、連絡が取れるかと問われた時、ふとその子が習い事を沢山やっていたことを思い出した。

ピアノ以外に何もやっていなかった自分は別にダサくなんかないのに、必死にいくつも習っているようフリをした。

 

今じゃそんな習い事なんかないよ、ってものも、知識をひけらかすために。

 

 

 

ところで僕は中高時代に3つ部活を兼部していて、もし、もし万が一、それが幼少期のそのコンプレックスから来ていたとしたら、と思って。

 

 

自分のしていたことは思っていたより稚拙なのかもしれなかった、ことの絶望。

 

 

 

 

後悔していることは?という学校内の新聞のような広報媒体の記事に、アンケートで「ない、やれることはやり尽くして来た」と書いた知り合いの先生が居て、

 

 

なんだそれでいいのか、と

羨ましいな、と。

 

 

 

 

 

具体例がないと自由になれなかったしなれなくて、今もまだそんな思考のまま生きてしまっている。

 

 

残念ながら記憶力が無いという理由で現在毛ほども後悔のない人生となっているのだけれども、

またこれも何かのコンプレックスなのかもしれなくて、

幼少期の自分を愛しながら生きていかなきゃいけないのだと気付いて、

また絶望の一歩手前。