青春の溺死体。

好きな人の脳内は覗きたい。ここはいずれ私の脳内になる場所。

好感度

 

 

「これも課題です、決定です。嫌わないで笑」

 

 

 

「上がりようも下がりようもないから大丈夫だよ」

 

 

 

 

 

本当は「下がりようがないから〜」と言おうとしていたが丁寧に言葉を選びすぎた結果こうなった。

なんか無頓着な印象なのかもしれない。

 

 

 

不動の第一位なので上がりようも下がりようもなくて言わば神枠、特別枠であるのだけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

不動の第一位の場合好感度は「上がりようも下がりようもないよ」と言えるのではないか?

 

上がってもそれは好感度の値を上限突破するだけで順位は変わらないわけだし。

 

 

 

逆に不動のワースト1位でもそうなのかもしれない。幸いそこまで憎んでいる人物も居ないので実態はよく分からないが負の値なだけできっと同じ感じなのだろうとは思う。

 

 

 

 

 

 

 

ふと思ったけれど、好感度は1つの軸だけじゃないのかもしれないな。

 

X軸だけじゃなくてYもZも、その次もあるかもしれない。

 

 

 

友達としての好感度が高くても一緒に暮らすとか恋人とかになると乱高下するのはそういうこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「好きと嫌いが両方あって、嫌いの方が勝ったから嫌いになった」

 

 

 

 

突発的な自分の感情をそれだけ論理的に分析出来ているのにそれでもどこかに感情的な、説明のつかない要素が見え隠れして好きな文章だ。

 

 

 

 

 

というか感情を論理的に述べている文章は大抵好きなのかもしれない。

 

 

 

語彙力あるオタクの叫び、みたいなツイートはとても好き。

 

 

 

 

 

 

といいつつ私も感情が高ぶるとやっぱり手紙の文体でスラスラと文章が出てきて、

それを書き留めるも捨てるにも燃やすにも勿体ないような気がして、

 

そうやって仕方なく嫌われるつもりで渡しても、

逆に文才を褒められたりその執念も褒められたりしたことがあるから

 

 

オタク気質な人間と文章っていうのは切っても切り離せないものなんだろうな。

 

 

 

 

 

 

 

これを書いていて思ったが、

そうやって書きなぐった文章で相手のことを否定したことは1度も無いと記憶している。

 

 

恋愛基質の話にも繋がると思うが、

好きな人の存在は呼吸から細胞や思考まで全てを全肯定する、

癖があるというかそういうようにしているというか。

 

そういうところが相手の承認欲求にでも触れて好きになられるのかもしれない、と自惚れてみるなど。

 

 

 

 

 

 

でも、自分を相手に良く思って貰うのは簡単で、

 

というのも小学生の頃に気付いたものだから不完全だとは思うが、

 

相手のコンプレックスを刺激しない触れないでいて、別の良いところを見つけてあげればいいそれだけのこと、と思っている。

 

 

 

例えば背の高い人だったらそこに何も触れずに、私あなたの文章好きだよとかそういうことを伝えてあげる。背高いと大変そうだけど実際どうなの?とか。

 

 

 

 

 

また逆に身近に居る、他人を疑ったり意地悪をしたりしていて性格悪いと言われている人を思い浮かべて欲しい。

 

これは偏見だが大体そういう人は背が低い、もしくはその事を本人が自分の欠点だと思っていることが多い。

 

身長が低いだけで、自分は人より劣っていると思い込んだ故の防衛反応かな、と思っているが、どうだろう。

 

 

 

 

 

まあつまり人のコンプレックスは意外と身近な所に潜んでいて、意思決定にすら関わってくる厄介なものなのです。ということかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなことをしていると、見透かすようで気持ち悪い、と言われてまた友人が減っていくんですけどね。