青春の溺死体。

好きな人の脳内は覗きたい。ここはいずれ私の脳内になる場所。

「最近考えたこと」

 

 

母校は中3と高2の時に生徒全員に書かせる作文コンクール的なやつがあり、高2の時に書いたやつが発掘されたので文字起こしします。

高2の時は「最近考えたこと」みたいなのがお題だったはず。

 

読み返してみると、荒削りとかいうのは当たり前だとしてそもそも語るに足る字数じゃなくて色々論が飛んでいる。そういえばめちゃくちゃ削った記憶が無いと言えば嘘になる。まあ少しでも読み手に刺さるところがあればそれでこちらの勝ちですからねこんなもんは

 

 

 

 

 

あ、無事入選しませんでした。

 

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あなたが初めて人生に絶望した日は、どうせ誰かの誕生日。

                   高校2年E組○番 (なまえなまえ)

 

大人になるとは果たしてどういう事なのか、考え続けてはこの歳まで至ってしまった。そんな気がしている。買った本を直ぐに読めなくなってしまったり、通販で買って届いたダンボールを開封するのが億劫になったり年々携帯電話の連絡帳が薄くなっていったりすることは、果たして成長なのだろうか。夏休みが辛うじて僕を子供に留めている気がする。随分と前に大人料金を見始めたというのに、歌舞伎町が僕を受け入れる雰囲気は今の所感じられない。ただ、もしかしたらその考え自体がまだ甘いのかもしれないが。

ある課題図書でこんな一節を読んだことがある。

「あの人は確かに成熟していたのだと思う。」

「成熟するにはやはり一度きちんと死ぬ必要がある。」

その人が近くにいると昂った時には落ち着かせてくれ、落ち込んだ時には共にいるだけで意欲が沸いてくるような人、そんな成熟した人がどうやらいるらしい。また、そういった周りに影響を与える人は一度きちんと死ぬことが出来た人だともあった。

成熟ではなく成長になら心当たりがある。

分かりやすい成長について見る。

髪を切る度、それは己の成長を否定していく行為だ、と思う。爪を切る、カサブタは取れ、傷跡も消えていく。意思だけがそこに連続してある。

誰かと疎遠になる時、僕がその誰かについて知っていることはその時点で途絶えて更新されることはない。それはつまりその人が僕の中で自殺しているということだ。大切な人が出来ては死に、一時的な悲しみに苦しんでは別れすら忘れてしまう。詳細な思い出は消え去り因果関係のみが遺る。

髪を切る度誰かを忘れる度に、人知れず肉体の一部が死に心の一部が成長している。また同時に心の一部が死に肉体は成長してもいる。緩い反比例を描きながらその曲線は確かに原点から離れていく。それを、成長と呼ぶのかもしれない。歳を重ねるとZ軸の値が増えていき物事を俯瞰出来るようになる、という言葉を貰ったことがあるのでこうした歳をとる度に物事を俯瞰していくという感覚は何人かには共通する感覚なのだと思う。

時間軸の観点から成長を見る。

例えば好きなバンドの作風がいつからか変わってしまったとしたら、ファンを辞めるだろうか。今ドームを埋められるような業界人も、小さな会場でやっていた頃から成長してきて、そうして今大きな会場で彼らを生きているのだろう。ただ、それも過去の自分を殺さなければ出来ないことのように見える。彼らは、舞台に立ち人の前で輝くような人達は、今を更新しながら生きている。そこに美しさなど良さを感じてファンが生まれると思うからだ。そしてそれは常に過去の自分を殺さなければ成されない。生きることは死ぬことだと思う。生きている心地は死ぬことで分かるのかもしれない。

鑑みるに、成長とは過去の自分を殺しながらある一定の方向を目指して移動していくことだろうと思う。その方向は人によって違うし途中で目的地が変わってその分の年月がハンディキャップになることも、あるのだろうと思う。

と書いたところで別段成長は悪いことではないと思う。だから特別悲しいことはなく、ただ少し寂しいだけだ。子離れ出来ていない親の心情も、きっと同じようなことだろう。

さて成熟についてである。

個人差はあれ、成長を基盤にして成熟していくという傾向は法整備の観点からもそれが読み取れる。

さてここでは、精神の成長を成熟と見て良いのかということが問題になる。

前述の本を元にするならば、精神の成長を経て周りに良い影響を与えられるようになった時、その変化を外側から形容するに成熟が相応しい、と言ったところだろうか。

他人に良い影響を与えるが精神は成長してないという人は存在するか。これは生物によくある例外で子供を当てはめるのが妥当であるように思う。子供らしい何にも染まっていない思考は時に恐ろしく鋭いものである。大人の場合はどうだろう。良い影響というものの定義にもよるが概ね他人に影響を与える人物は精神がしっかりしていることが多いようにも思える。該当の人物が居ないということはないだろうが数はきっと少ないものであろうし、その大半も幼稚性を元にしたものが多いのではないかと推測する。

ではその逆。他人に良い影響を与えるとは言い難いが精神は成熟しているであろう人。厭世観の酷い人などがそうだろうか。他人に悪い影響を与えるとは人をやたら罵倒するとか他人を頼ってばかりとかが思い当たるが、そういう人達は総じて自己肯定感が低いとかの精神的要因神大きいのではないかと思う。

どちらの人物も居ないことはないのだろうが少数派であり世の傾向として捉えることは難しそうだ。

はっきりとした結論の出ない文学のこういった曖昧な部分は実に科学的であるように思う。科学は往々にしてそういうものだというイメージがある。そして思考を書き記すことの意味が答えを出すことに無いのも確かであると思う。思考の過程に意味を持たせてくれる、そういう教育環境であれば良いなと思う。

そういえば社会科の発表学習の際にも青年期の課題で発表していたことを思い出した。死に近づきたくなるのは若者にとって不自然なことではないという言説も思い出した。つまりこうして述べてきた少し暗く見えるテーマであっても当人からすれば至って自然な、ある種生理現象的な思想思考の過程であると思う。加えて言うならば至って健全な。全若者が当てはまる訳では無いと思うがそれでも極限られた人数という訳でもないのであろうから、こうして若者は今日も悩んでいるのだ、と思っている。インターネットが発達して大方の行動が記録されるようになった社会で若者は常に失敗出来ない、本番の緊張した状態に晒されている。カード決済が主流になり貨幣が根絶した社会の若者はお金という形のないものを身近に捉えるのかそれとも哲学のように小難しく捉えるのか、どちらにせよどの時代に置いても若者は流動的で未来のある眩しい存在だと思う。それを自負して旧世代の人々を見下し心の平穏を保つ日々からの脱出。その時は、今も想像がつかない。