青春の溺死体。

好きな人の脳内は覗きたい。ここはいずれ私の脳内になる場所。

感情

 

生きた心地がする時はどんな時だろう。

君が1番人間らしいのはどんな時だ。

 

 

人は誰だって小さい頃、“世界に絶望した”時があるものだと思っている。

そんなだからついつい「あなたが初めて世界に絶望したのはいつですか」なんて問いたくなる。

 

自分は多数派だとわかった時、

目の前の事件に対して為す術がなくなった時、

吐きたくなるほどの愛を捨てた時。

 

絶望って、気持ち悪さが全てみたいな顔をしていながら、物凄く汚い人間みたいだ。

 

ちょっと、羨ましい。

 

まあ実際には苦しいだけなのだけど。

 

 

 

感情よりも論理的思考が上回る、そんな人は、

どこかで感情という人間らしさを求めているんだと思う。深層心理でも、表層でも。

そしてその逆も然り。

 

まあ本来ならば文字で考えること全てが人間らしい生命活動なのだけれど、これこそ天は二物を与えないというものだろうか、どちらかが欠如したまま呼吸を繰り返している命も多いよな、なんて思う。

 

 

誰かを好きになるということは、

好きという感情を抱くことは、難しい。

から、それが故に暴走することもあるし、

ふっと0になることだってある。

 

嫌いとか嫌だとかありふれたものじゃなくて、もっと尊い、命の雫みたいな感情を、論理思考人間から出せるひと、揺さぶれる人。

きっとこれが、好きに繋がっていると思うよ。

 

 

その過程で生まれ、尚且つ意識された感情は、「あなたは人間である」と肯定されているみたいで、割と、好き。いや、かなり。

 

 

 

自分が人間であると再認識して、絶望する日もあるし生きた心地がして嬉しい日もある。

そのどちらも結局は睡眠の糧にされて消えてしまうから、人は文字を得たんだよ、きっと。

 

情緒不安定、とか、気分屋、とか、別に悪いことじゃないと思う。持論だけど。

だってそれは僕にないものだから。

 

とても風情のない言い方をすればそれらの人達はモルモット、実験体。

 

感情の見本物。

 

好き。

 

 

 

質の悪いロボットとして、ではなくて、そこそこの人間として生きられているのは彼ら彼女らのおかげなのだから、きちんと向き合わなければなぁ、と思った、

それでもって決意した時の空が明け方色だから、そういう人はわりといつまで経っても報われないんだろうな。

 

お祭り

久方ぶりに同期に誘われて

商店街の小さなお祭りに行ってきた。

 

 

隅田川花火大会とか大きなグラウンドを借りて行うような大きな祭りではなかったが、1番胸が苦しくなるのは近所の祭りだと思う。

 

 

8月の最後ら辺に開催される近所の小さなお祭り。

宿題がまだ残っていながらも友達に誘われて行った現実逃避としてのお祭り。

ああ夏が終わると思わせる提灯の光の元、今年もまたどこかで誰かが偶像みたいなわたあめを食べるのだろう。

 

 

そこで会う同級生とか、初恋の人とか、怖いくらいに胸が痛くなる。

近所でばったり会うより地獄だし、皮肉だ。

 

恋を引きずることはそんなに悪い事だとは思えないから、多分余計に苦しい。

 

 

バケツをひっくり返したような人の波の中、

遠くの景色にふと、

かつて好きだった人を見つける。

悪運というか運命というかは分からないけれど

懐古という名の暴力が押し寄せる。

 

 

そこに理性は希薄気味だ。

 

 

そのうちに、道行く誰かとぶつかったりして

緩やかに正気に戻る。

 

祭りでなくても、人混みは嫌い。

だけれど、人混みはそんな胸の痛さから気を紛らわせる1つの方法だ。

 

 

 

美味しいけれど、別に美味しい訳でもない食べ物を売る気持ちが分からないから、

僕は机を隔てた向こう側には一生立てないだろうし、ましてや射的の的なんかにもなれないと思う。

 

祭りの空気を吸うのもなんだか嫌な気すらしてくる時だって、ない訳じゃなくて、

惰性で生き過ぎでいるのか、

鈍いから気付いてないのかも区別がつかない。

 

 

それでも誘われたら行ってしまうのは、

 

浴衣姿の可愛い女の子が居るから?

初々しい男の子達が居るから?

良い写真が撮れるから?

行きたくないと断れないから?

 

 

人は十代の頃に手に入れられなかったものを

一生求め追い続ける、からかもしれない。

 

イベントというのは非常に麻薬的なのだな、

 

蒸し暑さとの最後のお別れ、今年はいつになるだろうか。

2番目の想い人

 

 

 

少数派じゃないと世界が見えないから

全てにおいて少数派でありたいと思うよ

 

 

 

と友人にアドバイスというかそんな感じの言葉で勇気づけたことがある。

 

 

 

多数派に紛れていたら意見の違う他の人に寛容になれないから、とかそういった感じ内容だったはず。

 

 

 

 

 

 

 

ところで、人生で2番目の〜とか、最後から2番目の〜とか、そういう表現ってずるいなぁと思う。

 

いくらでもやり直し出来ちゃうじゃん、と幼少期に思っていた記憶があって、その印象をなんとなくまだズルズルと引きずっている。

 

 

何かしらの事柄について、

そういった自分勝手な偏見がある、

ということを踏まえても尚、自分の中で

その内容に誰が当てはまるか

ランク付けしたいものってあると思う。

 

今までで1番好きだった人には

自分の中の1番であって欲しいのと同じで。

 

例えば「君は今まで出会った女性の中で2番目に美しい…」とかいうセリフ、

なんて絶対に言う機会なんかないけど、

でもってなんだかベルばらくさいけど、

その心理は理解できるものがあるような気がしている。

 

 

そんでもって自分のランキングに入ってくる人、1位だろうが10位だろうが順位関係なく、絶対的に少数派だろ、と思う。

もしくは多数派でも少数派的部分を持った人。

 

 

だってそうじゃないと名前なんかいちいちあがってこないじゃん。

 

 

で尚且つ。そういう人物っていうのは大体自分が無意識に大事にしてる人が多い。本当に多い。3〜5位は顕著。そこまで交友関係広くなかったらごめん。

 

 

そういう自分が無意識に大事にしている人物ほど気づかないし失った時に悲しいものはないなあとも思う。

 

あれだな、両片思い。

学生時代リアルに経験したものとしてはなかなか辛い響きだが、今にも崩れそうな危うさがまた、美しかったのかもしれないなと思う。

 

 

 

 

 

 

 

少数派は、まあたしかに数の暴力は出来ないけれど、

その分強い印象を与える力があると思う。

印象力とでも言うのだろうか、

その視点もあったのかという驚きやそれが存在していること自体に対して感じる怖さなどが与える力は、確かに人の記憶に残る。

 

 

 

他人のそんな僅かな少数派的部分も見逃さずに大切にしたい。だしせめて仲の良い人だけはその人の中の何かのランキングには入っていたい。

 

 

 

印象的でありたい、少数派でありたい、変人でありたい、変態でありたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結局その全ては自己愛なのかもしれないけど。

他人の母の死

 

 

「母の容態が悪くなったらしいので帰省」

 

こちらが勝手に見知った気になっているだけのただの赤の他人で、Twitterで相互になれて嬉しかった尊敬してる人。

 

 

 

「母を亡くして何かオーラが出てるのか皆優しい」

 

 

漠然と喪失感を得た。

 

 

まあ、それなりに涙も出た。

 

学生時代よりもちょっとだけだが

泣いたという事実が増えてきて少し嬉しい。

 

それだけ感情が豊かって感じがするから。

 

それでも好きなクリエイターの吉報とか、もっと他にそれっぽいことはあっただろうとも思う。

 

だというのに記憶の中で上位のレベルの悲しさだった。

 

 

知人の、母の、死が。(倒置法)

 

いや、向こうから見れば僕はただの他人だ。

 

 

いや、その他人の母の死が、

僕には相当キツかったのだ。

 

 

珍しく友人に相談というか愚痴というか、

悲しんでいるんだという旨を話した。

 

そうしたら「気持ち悪い」と言われた。

 

そりゃそうだ、ただの他人だもん。

 

 

特定して、相互になって、嬉しかった。

こちらの正体は何も明かしていない、

この世に存在している成人男性。

 

 

 

恩師と同年代らしいというのもあって、誰しもがそのくらいの年齢になると、母を思うそんな気持ちになるのだろうかとも思った。

 

 

 

30代の子供にとって、親とは、一体。

 

 

 

学生時代、実家暮らしだという先生が居た。

それはそれでその時にそこそこの衝撃を受けた。

ああ、なんだ、それで良いのか、先生だって人なのか、と思っていた。

結局、28だか9だかの年齢の時に辞めていったはずだけれど、職業として先生を選んだタイプなのか否かは、最後の朝礼台まで聞き忘れていた。何を話していたのかっていうのは、薄っぺらくて覚えていない。

 

と同時にTwitterで「25にもなって実家暮らしの男は〜」「ママの手料理が好きなのかよ」という旨のツイートを見た。

いや別に何も、どっちも、悪くは無い。

ちょっとだけ、自分が言われているような気がした。

 

 

あの時もこの時もまた他人だけれど、なんとなく辛かった。

 

 

親、というかよく見知っている生活を共にする人って

なんだか気持ち悪いなぁ、

とかいう考えもいつかは変わってしまうのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なんでそんなに早く逝っちゃったんだよ...」

 

 

肉親を亡くすこと、それがヒリヒリと心に染み付いて、時々考えている。

 

ただの他人のことを。

 

 

座右の銘

心に残った一文って、自分にはないなと思った。

 

好きな人の好きな言葉は覚えている。

「会うは別れの始め」だ。

 

好きになって、会えなくなって、

今でもたまに思い出を見返すと、

この言葉に出会う。

 

毎回、なんて綺麗な伏線回収だ、と思う。

 

もう最早仕方ないなとすら思えてくるし、

ただの何でもない当然の別れに感動性すら持たせてくるその頭脳に脱帽である。

 

数年前に調べてみたのだが、日蓮宗のどこかの言葉らしい。いや、最早言葉がその人自身なのだが。

 

 

タイトルにさせて頂いた「青春の溺死体」という言葉も、自分が思いついたものではなくて実は拝借させて頂いたものである。

 

中学時代、御友人の授業を担当していた講師であった方の更に友人の方が組んでいるバンドの名前である。

なんとも怒られそうな由来だ。

 

その方も教職なのだが、国語の教師とだけあるのか忘れられない、素敵な名前であると思う。

バンド名というのも相まると少し悲しいものも感じる。

 

「断罪と贖罪のポメラニアン」なんて打つと特定されてしまいそうだが、またこれも好きな名前である。

 

 

あとは落合信彦氏の「猛烈に嫌われるか好かれるかしろ、それ以外は薄っぺらい」みたいな趣旨の言葉は聞いた時にああ良いなぁと思った。

 

こういう良いなあと思う言葉は誰か御学友なんかを励ます時に使えたり使えなかったりするので集めておくと便利かもしれない。

 

って某担任も同じようなことを言ってたな、

歳でもとったか。

 

 

 

 

座右の銘、いやぁ.......ない。

天上天下唯我独尊、て言えるほどできた人間でもないし、かといって拝借するのもなんだかなぁ。

 

結局のところはなんでもよいのかもしれないし

そして多分実際にそうなんだろうけど、

なんというか締まらないんだよなぁ。

 

 

ああでも「迷ったら両方」「変態は褒め言葉」「ランダム製品は金で殴るもの」とはよく言うな。

うーんヲタクチックだ。