青春の溺死体。

好きな人の脳内は覗きたい。ここはいずれ私の脳内になる場所。

初夢

 

 

初夢を見た。

 

 

正確には二度目なのだが内容を覚えてるという点で初夢ということにさせて欲しい。

端折ってしまえば要は好きな人が出てきたわけである。

 

 

そうして1日を過ごしたわけだが、

 

 

 

 

 

まあ空虚。

 

 

 

 

 

 

居ないことが日常で、それを今更悲しがっていることに驚いた。死んでも、やっぱり世界って廻るんだな。びっくり。

 

 

 

 

 

 

人生の依代にするのは物である方が良くて生身の人間はその人が可愛そうだ、なんてツイートを昔に見た。

 

じゃあ死んだと見なしている人間はどうなんだ。

 

 

 

会えなくて、だから自分の中のその人への印象も死ぬまで変わらないで、

君はそうやって生きるしかないないんだよ

と僕を決めつけた、そういう意思を持つ人。

 

 

生身の人間よりかはマシではあると思うけれど、でもエゴを言うなら許されては欲しい。やっぱりね。

 

 

 

 

言葉の節々から知性が見え隠れしていてとても素敵な人だった。

その人の好きなものか嫌いなものででしか世界は出来ていないのだ、と僕は知っている。

 

 

街を歩けば記憶が思い出されて、酷い時には幻覚と幻聴も付いてきて、食べ物は勿論何か洋服やブランドまでもが、思い出のせいで汚く見える。

 

 

 

人から好きになられることは罪なのかもしれない。

 

 

 

 

それともなければ自分は何か業を背負って生きてきたっけか。

 

 

 

 

綺麗じゃない感情の方の執着だとは知っているけれど、

だからこそやる宛がなくてこうして言葉にして、

吐瀉物にされた言葉が0と1に変わって空想に積もっていく。

 

 

 

見返りの無い恋は美しいとも醜いとも取れるけれど、

それは結局愛も同じだしなんなら人間も街灯も木陰も元々はそうだったと思えて虚無になる。

 

 

一連の、気持ち悪い、ストーカーともとれるような行為を一途と称されて、

見透かされたようで恥ずかしくて、返答に困った。

 

僕は一途で居て良いのかと許可されたようで(多分ダメだけど)、本当は心地良いのだな。

僕の深層心理は君だったんだな。

 

 

 

 

浅野いにおさんの「ソラニン」という作品で、そのインタビュー記事で、作者が描きたかったことは死者は忘れられてただの日常になる、みたいなことだったらしい。

 

 

もう会えなくなることが分かった時、そう直接は言われなかったけれど嘘が下手くそだなあと失望した。代わりにその愛しさと優しさに帰り道で死ぬほど泣いた。

 

そんなわけで鈴虫の鳴き声は今でも苦手。

 

 

感情が失われたと思えるくらいに喪失した後も、結局は今これを書いているように僕は、

ぼやぁっと生きているんだよなあ。義理堅いね。

 

 

 

だから君が美談になるまで君を愛そうと思ったわけなのです。

そう考えると僕は、きちんと君を亡くせたような気がしている。

 

 

 

あの人はちゃんと死ねたのかなあ。